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主の御昇天の大祝日      Festum Ascensionis Domini


 「我は父より出でて世に至りしが、また世を離れて父に至る」(ヨハネ 16・28)
 このキリストの聖言の前半はその御托身御降誕によって実現されたが、後半は御復活後40日目に主の御昇天によって成就された。この銘記すべき事件を記念する為、本日の御ミサ中聖福音の後、御復活のシンボルである復活祭のろうそくが消されるのである。

 イエズスは全世界に布教することを使徒達に命じてから、彼等と共にオリーブ山に赴かれた。そしてそこで例の愛と慈悲に充ち溢れた御まなざしで彼等をご覧になり、もう一度御手を挙げて祝福を与え給うと見る間に、御足は地上を離れて空に浮かび、次第に高く昇り行き給うた。一同は愛慕と別離の情を双方にこめて、一心にお見送りする内、御姿はやがて一片の雲に隠れて見えなくなった。その時主に古聖所から救いあげられた義人の霊や御父より遣わされた天使の群れは歓呼して主をお迎えし、天国へと御先導申し上げ、今は御父の右の玉座につき給うた主を礼拝しつつ、永遠に御喜びをわかつようになったのである。「天主は歓びの叫びの中に、主ラッパの声と共に昇り給えり。主は高き所まで虜囚を伴いて昇り行き給えり」
 後使徒達は愛し奉る恩師に別れつつも、言い難い深い喜びを心に抱いてエルサレムに帰ったが、聖会も今日同じ喜びを以て主の御昇天を祝う。その喜びとは主に対する喜びと、我等に対する喜びとの二つである。

 (1)本日はイエズス・キリストの御勝利を祝い奉る日である。そしてまた彼が凱歌を奏し給うたのには十分な理由があたのである。
 主は「自らへりくだりて死、しかも十字架上の死に至るまで従える者となり」(フィリピ書 2・8)給うた。それ故彼はこの世に来たり給うた時「主よ、犠牲と献物とを否みて肉体を我に備え給えり。我言えらく、み給え天主よ、我は御旨をお行わん為に来れり」とおっしゃったのである。この御志より主は聖父の玉座を去ってかしこくも童貞聖マリアの御胎に宿り、ベトレヘムの貧しい厩に生まれ、ヘロデの毒手を避ける為エジプトに逃れ、一大工の息子としてナザレトにつつましい生活を送り、聖マリア聖ヨゼフに孝をつくし、掟を守り、天父の御定めに従って30歳の時洗者聖ヨハネから悔悛の洗礼を受け給うた。また迷える羊を連れ戻すべくユダヤの各地を廻るようになられてからも、天父の御旨に従うのを日々の糧の如くにされ、多くの誤解、冷遇、嫉妬、憎悪、迫害を甘受し給うた。その優れた従順の御徳はゲッセマネの園において溢れる苦痛の杯を飲み干し、十字架上に於いてすら「成り終れり」と宣うことが出来たほどであった。さればキリストは文字通り十字架上の死に至るまで従順な御方であった。そしてこれは何の為かと言えば、ことごとく我等の天主に対する不従順、諸々の罪を償い、我等を悪魔の手からあがない返し、天の故郷聖父の御許に連れ帰る思し召しに他ならなかったのである。「この故に天主もこれを最上に挙げ」(フィリピ書2・9)給うた。キリストは救い取った天主の子等を引き連れ、意気揚々と天国に凱旋し給い、その時山と獲られた戦利品、すなわち救霊の聖寵は今も聖会に依って望む人々に分け与えられている。聖子は聖父の家に帰られ、新たに得られた兄弟姉妹、救われた人々を紹介し給うた。実に本日はキリストが天地の大王の御位に即かれた慶祝の日と言うことが出来るのである。

 (2)本日はまた我等にとっても喜びの日である。御昇天における主の御光栄は、人性をも高めたから、我等にとっても光栄である。聖パウロは教えて曰く「天主は我等をキリスト・イエズスにおいて共に天に座せしめ給えり」(エフェゾ書 2・6)と。この思想は聖会の教父方を深く感動せしめずにはいなかった。レオ1世教皇は曰く「キリストの御昇天は我等自身の地位をも高めたから、我等は衷心から喜びたい。というのは、今や我等は失った楽園を取り戻したばかりでなく、悪魔の妬みによって奪われた所よりも遙かに大なる賜物を、キリストの言い尽くし難い恩寵に依って与えられた。すなわちかつて悪しき敵に陥れられて楽園から追い出されたアダムの子は、天主の聖子と合体して天父の右に座する身分とされたからである」と。我等人間の性質はかくて最高の天主の御光栄にあずかる事となった。キリストは実に人体を以て天に昇られ、人性を有し給うまま天主の玉座につかれ、永遠にその通りおわすのである。これは我等人間にとり空前の名誉と言わねばならぬ。我等の一人、神秘体の頭なるイエズスは天主の玉座に在す。故にその妙体の枝なる我等も神化されている訳である。されば本日の御ミサの序誦に「彼は我等をもその神性にあずからしめん為、自ら天に昇らせ給えり」と歌われているのも甚だ意義深い。主は御昇天に依って我等に神聖さを与え給うた。しかしそれと同時にスルスム・コルダ、すなわち心を天に挙げる事を我等にお求めになる。罪はキリストと共に昇天しなかった。それは我等を地上に縛り付けておく絆である。我等はこの絆を断ち切ろう。その為にはまず、肉体はこの世に在りながらも心においては天に昇り、意志、欲望において天上的生活を営むよう努めねばばらぬ。そうすれば他日霊肉共に主の御後を追うて天国に入ることが出来よう。イエズスはかつて「天に在すわが父の御旨を行う人こそ天国に入るべきなれ」(マテオ 7・21)と仰せになった。従ってこの世においても主に倣って、従順に天主の御掟を守るのが何よりも確かな、真の天国への道なのである。